山下祐介

原発避難をめぐって生じているのはどうも「無理解」ではない。みなこの原発事故・原発避難については関心があり、一定の理解を示している。だがどうも、その理解では駄目なのだ。理解したつもりになっていることが、本当の理解ではないために、避難者のためとされて行われているものが「これは自分たちのためではない」ということが生じている。 「理解できない」(無理解)のではなく、「それは本当の理解ではない」(理解にあらず=不理解・非理解)、そういうことがあまりに多く、しかもそうした不理解が、避難者をめぐる現実を、きわめて難しくしているようなのだ。 例えば政府による、帰還を中心とした復興政策。これはとくに事故当初、メディアなどに盛んに出ていた「帰りたい」という避難者の声をそのままに理解し反映させたもののようだ。だが「帰りたい」という声をそのまま鵜呑みにして理解してはならないのだ。みな内心では「本当は帰れないのは分かっている」のである。「帰りたいけど帰れない」のが多くの人の現実なのに、「帰りたい」という部分だけが都合よく取り上げられ、帰還政策に結びついてきた。そこには「『帰りたい』という人々を、なんとしてでも早く帰してあげたい」という正義の感覚さえ潜んでいるようだ。